作品名
猿の惑星

監督
脚本
主な声優
1分で分かるあらすじ
「人類とは何か?」と問われたとき、あなたは自信をもって答えられますか?文明と理性を誇る人間たち。しかし宇宙の果てには、その“常識”をまるごとバナナの皮で滑らせる衝撃の真実が待っているのです。
時は西暦3978年。宇宙船に乗り込んだ宇宙飛行士たちは、冷凍睡眠から目覚めると、そこは地球ではない謎の惑星。酸素はある、重力もある、でも…何かがおかしい。森を抜けると、そこには言葉を話すサル、サル、サル!人間は野生動物として扱われ、知性を持つ者はゴリラやチンパンジーやオランウータン。
「えっ、え?!」と思わず二度見したくなる世界。だがこの世界には、ただのパロディではない、深くて鋭い風刺が隠れています。科学者ジーラとその婚約者コーネリアスというチンパンジーカップルの助けを借り、主人公テイラーはこの惑星の秘密を解き明かそうと奮闘します。
やがて明かされるのは、驚愕の真実。地球とは何か、人間とは何か、未来とは何か…その答えが、砂漠に突き刺さる自由の女神とともに浮かび上がるラストシーンに詰まっているのです!
観終わった後、あなたは思うでしょう。「バナナを食べる手が震える…」と。
哲学とユーモアが交錯し、反転する価値観に心を奪われるこの物語は、ただのSF映画ではありません。「知性を持つ者」とは誰のことなのか——その答えは、あなた自身の中にあるのです!
予告動画
母なる地球から320光年旅して、飛行士たちはその惑星に漂着した…。
映画史に残る傑作SF!
by 20世紀スタジオ 公式チャンネル
猿の惑星は地球だった⁉︎
映画『猿の惑星』の最大の衝撃は、なんといっても「ここが地球だった」という終盤の大どんでん返しです。
自由の女神の残骸という“無言の真実”が、観る者の脳内に一撃を加えます。SF史に残るこの展開、その裏にある意味を深掘りしていきましょう。
「異星」ではなく「未来の地球」だったという真実
物語を通して観客はずっと「この星はどこなのか」と考えさせられます。重力も空気も人間に適応しており、動物も似ているが、支配しているのはサルであり、人間は言葉も話せない下等な存在。
誰もが“遠い惑星”だと信じて疑わないその舞台は、実は遥か未来の地球でした。その種明かしは終盤、崩れた自由の女神の頭部をテイラーが発見するという形で訪れます。言葉など必要ない、映像だけで悟らせるあの演出はまさに映画表現の極致。観客とテイラー、そして映画そのものが一体となって、知性の敗北、文明の崩壊を目撃するのです。
「こんなに知的で皮肉な終わりがあっていいのか」と驚嘆しながらも、「なるほど、これがオチか…!」と膝を打つ瞬間でもあります。
自由の女神は、ただの彫像にあらず
砂浜に埋まった自由の女神、それはただの背景ではありません。それは“希望の象徴”であり、文明の残滓であり、無言の告発でもあります。テイラーがその姿を見たとき、彼の心に去来したのは怒りと悲しみ、そして深い絶望。

「やってしまったんだ…」と呟くその背中には、人類が自らの手で築き、そして壊してしまった文明の重みがのしかかっています。このワンカットで描かれるのは、まさに知性の終焉です。核戦争がもたらしたのは地表の焦土化だけではなく、文化の破壊、記憶の断絶、種の転覆、人間が頂点だったはずの生態系は、見事に逆転していたのです。
なぜサルが支配するようになったのか?
この問いに対する明確な答えは、実は作中で詳細には語られません。
しかし、本作を軸に展開されたリブート作品(創世記・新世紀・聖戦記)を踏まえると、文明が崩壊した地球では、人間の自己中心的行動とテクノロジーの暴走により自滅が進み、進化したサルたちが徐々に台頭していったことが示唆されます。
つまり『猿の惑星』は、原因を明かさないことで想像の余白を残し、逆にそのリアリティを高めているのです。また、支配と被支配という構造は、現実の歴史と社会への皮肉とも読み取れます。
人間が行ってきた動物実験、奴隷制度、差別構造などが、そのまま“猿の社会”として反転されて描かれることで、「もし自分が支配される側だったら?」という倫理的な問いを観客に突きつけてくるのです。
ゼイウス博士はすべてを知っていた
ゼイウス博士という存在は、この“地球オチ”を象徴するキーパーソンです。彼は神官でありながら、実は古代の記録にアクセスできる存在であり、かつて人間が栄華を極めた事実を知っていました。
それでも彼は、その事実を隠し、学者たちに「人間に知識を与えるな」「過去を掘り返すな」と命じてきました。なぜか?それは「真実を明かせばサルの社会が崩壊するから」です。この保守的な支配構造は、まさに現代社会にも通じる情報統制の縮図です。
彼は悪役ではありません。むしろ、秩序を守ることを最優先するがゆえに、嘘をつくしかなかった人物なのです。自由の女神を見たあと、観客は「ああ、ゼイウスの苦悩も分かる…」と複雑な気持ちになることでしょう。
映画界に残る功績
SFにおいて「地球が滅びる」展開は珍しくありませんが、『猿の惑星』ほど現実味と哲学をもって破滅を描いた作品は他にありません。
たとえば、『マッドマックス』は暴力による終末、『2001年宇宙の旅』は進化による終末、『ターミネーター』はAIの反乱ですが、本作は“人間自身の愚かさ”による終末です。核戦争か、環境破壊か、テクノロジーの暴走か、その詳細は語られないのに、私たちは「この地球、放っておくと本当にこうなりそう」と背筋が冷えるのです。
つまりこの物語は未来の警告書であり、現代の自己紹介文でもあるのです。テイラーが「自分たちの手で…!」と崩れ落ちたその瞬間、観客全員が自分の未来と向き合うことになるのです。
シリーズではリンカーン像も出てくる!
まさかのまさか!猿の惑星では自由の女神だけではなく、アメリカ合衆国の大統領のリンカーン像も出てくるんです!
登場するのは、2001年公開のリメイク版『PLANET OF THE APES/猿の惑星』です。
監督は奇才ティム・バートン。1968年版とはストーリーも世界観も異なる、独立したリブート作品です。
シーンの詳細
2001年版のラストでは、主人公レオが時空を越えて地球に戻ったと思いきや、そこには人類ではなくサルが文明の主役となった地球が存在していました。そして驚愕のクライマックスとして登場するのが、ワシントンD.C.の「リンカーン記念堂」しかしその像は、人間のリンカーンではなく、サルの将軍・セードの姿だったのです。

これは1968年版の「自由の女神」のオマージュともいえる衝撃のオチのリメイク的演出ですが、ストーリーラインや世界観はオリジナルとは異なり、パラレルワールド的な構造になっています。
自由の女神
1968年版のラスト(本当に地球だった)
猿のリンカーン像
2001年版のラスト(地球に戻ったと思ったらサルが支配する別の地球“パラレルワールド”になっていた)
どちらも「ラスト1カットで全部持っていく」超名シーン。
「これだから猿の惑星はやめられない!」そう言いたくなるSF史に残るラストです!
猿の惑星は何年前?
『猿の惑星』シリーズの初代映画が公開されたのは1968年です。
今シリーズの舞台は数千年後の未来であり、地球が人類の手によって自己破壊し、進化した猿やゴリラが支配する世界を描いています。。
人類の未来に対する警鐘を鳴らす設定でもあり、今でも多くのファンや設定が秀逸な作品として多くの方から楽しまれています。これを機に見たことがない方はぜひ視聴をおすすめします!
シリーズや関連する作品一覧
🔵オリジナルシリーズ(1968年〜1973年)
猿の惑星(Planet of the Apes)(1968年)
続・猿の惑星(Beneath the Planet of the Apes)(1970年)
失踪したテイラーを捜索するため、宇宙飛行士ブレント少佐は猿が支配する謎の惑星に降り立ちます。
そこで彼は、地下に潜むミュータント化した人類の隠された文明を発見し、ついにテイラーとの再会を果たします。
しかし、猿とミュータントの壮絶な戦いに巻き込まれた二人は命を落とし、テイラーは最後の手段として核爆弾を起動。地球はその瞬間、静かに滅びを迎えるのです。
新・猿の惑星(Escape from the Planet of the Apes)(1971年)
未来から現代の地球へタイムスリップしてきた猿の夫婦ジーラとコーネリアスは、人類との平和な共存を目指します。
はじめは人々に歓迎されますが、彼らが語る未来の人類の運命に不安を抱いた政府は、やがて二人を迫害します。
ジーラとコーネリアスは命を落としますが、その息子シーザーは生き延び、物語は次の世代へと受け継がれていきます。
猿の惑星・征服(Conquest of the Planet of the Apes)(1972年)
未来の地球で、猿たちの反乱を率いるシーザーが姿を現します。
彼は人類による奴隷制度に立ち向かい、猿たちを解放して新たな社会の創造を目指します。
しかし、その過程で人類と猿の間に新たな緊張と対立が生まれていきます。
最後の猿の惑星(Battle for the Planet of the Apes)(1973年)
核戦争後の地球で、シーザーは猿と人類が共に暮らせる新たな社会の構築を目指します。
しかし内紛が勃発し、ゴリラたちが支配権を狙う中、シーザーは平和と共存のために立ち向かいます。
やがて猿と人間の共存が実現される未来が描かれます。
🔵テレビシリーズ(1970年代)
猿の惑星(Planet of the Apes)(TVドラマ・1974年)
アニメ・猿の惑星(Return to the Planet of the Apes)(1975年)
🔴リメイク作品
PLANET OF THE APES/猿の惑星(2001年)
🟢新シリーズリブート作品(2010年代)
猿の惑星:創世記(Rise of the Planet of the Apes)(2011年)
猿の惑星:新世紀(Dawn of the Planet of the Apes)(2014年)
猿の惑星:聖戦記(War for the Planet of the Apes)(2017年)
猿の惑星:キングダム(Kingdom of the Planet of the Apes)(2024年)
猿の惑星の見どころシーン5選
サルが人間を狩る逆転世界
人間が野生動物のように捕獲される衝撃シーンです。
テイラーたちが惑星を探索中、突如として始まる“サルによる人間狩り”。銃を構えたゴリラたちが馬にまたがり、逃げ惑う人間たちを追い詰めていく様子は、文明の常識が逆転した瞬間をまざまざと見せつけてくれます。

特に、テイラーが罠にかかって捕らえられた瞬間の混乱と絶望は、観客の目に深く焼きつきます。この一連のシーンは、まさにこの物語の世界観を象徴するスタートダッシュであり、「文明とは何か?」という問いを突きつけてくる名場面です。
知性あるサルとの対話
テイラーとチンパンジーの科学者ジーラ、コーネリアスとの初対話シーン。
声を失ったテイラーが、サルの社会に捕らえられ、「知性ある動物」として扱われていた中で、紙に書いた一言「私を助けてくれ!」を見せた瞬間、研究者ジーラの目に知的生命体としての希望が宿ります。
この小さな文字列が、テイラーの存在を「ただの動物」から「言葉を持つ異質な存在」へと一変させるのです。言語によるコミュニケーションこそが文明の証明。それを強烈に体感できる重要なシーンです。
法廷での裁判シーン
テイラーがサルの社会の「法」に挑む場面。
言葉を話す人間の存在を認めない保守的なオランウータンたちと、真実を突きつけるテイラー。法廷の空気はまるで“理性をまとった愚かさの展示会”。
「信仰」と「科学」が対立する構図は、現代社会の縮図のようでもあり、知性とは何か、真実とは何かを問うスリリングな議論が展開されます。この知的な戦いこそ『猿の惑星』の中核とも言えるシーンです。
テイラーの声が戻る瞬間
「この汚い手を離せ、クソ猿ども!」と叫ぶ衝撃。
捕まっていたテイラーが突然声を取り戻し、サルたちの前で叫ぶこの瞬間は、物語の大きな転換点です。
「言葉を話す人間」は存在しないと信じられていた世界で、この叫びは“常識を打ち砕く雷鳴”のように響き渡ります。このセリフと共に、彼はただの動物ではないと一気に存在価値を高め、物語はサスペンスから哲学的対話へと進化します。
自由の女神のラストシーン
地球だったという真実にテイラーが打ちひしがれる名シーン。
物語のクライマックス、テイラーはついに“この惑星の正体”にたどり着きます。
崩れた自由の女神を見上げながら、「ああ…やってしまったのか…」と絶望に膝をつく姿は、文明の自滅、核の愚かさ、人類の驕りを凝縮した映像詩です。全SF史の中でも屈指の衝撃ラストとして語り継がれており、観た者の胸を締めつけます。
有名なセリフ
「この汚い手を離せ、クソ猿ども!」
捕らえられ、言葉を失っていたテイラーが、サルたちの目前で初めて声を取り戻して叫ぶ衝撃の一言。まるで沈黙を破る雷鳴のように、このセリフはサル社会の価値観を根底から覆すきっかけとなります。この一言によって彼は「知性を持つ存在」としての立場を確立し、物語は急速に加速していきます。
「サルが人間よりも知的であるとでも?」
知性あるオランウータンであり、保守的な宗教的権威でもあるゼイウス博士のこの一言は、科学と信仰、進化と創造のせめぎ合いを示しています。現代にも通じる「信じたいものしか信じない」思考の危険性を象徴するセリフであり、皮肉と権力の象徴でもあります。
「人間の過去を知ることは、禁じられているのだ」
テイラーが知ろうとする「この星の真実」に対し、ゼイウス博士が放つ決定的な拒絶の言葉。知識が支配構造を揺るがすものであると理解しているからこその発言であり、情報統制と政治的洗脳の恐ろしさを浮き彫りにしています。ディストピア的警告が込められた、重厚なセリフです。
「この惑星に必要なのは、真実ではない。秩序だ」
保守と改革、自由と支配。その狭間で揺れるサル社会の根幹を象徴する一言です。ゼイウス博士は、真実を知りながらもそれを隠し、支配体制を維持しようとします。このセリフは、現代の政治的・社会的構造にも通じるリアルな警鐘として、多くの観客の心に残ります。
「やってしまったんだ…自分たちの手で…」
自由の女神を前にして膝をついたテイラーが、全てを悟った瞬間に呟く言葉です。彼の嘆きは、文明の傲慢さと核戦争の悲劇を象徴しており、SF映画史に残る最も重く、皮肉に満ちた名言のひとつです。この瞬間、観客は“地球”の未来の姿を突きつけられ、無言の衝撃を味わうことになります。
作品功績
興行収入

興行収入:全世界で約3,300万ドル(1968年当時/※インフレ換算で約280億円相当)
受賞歴

受賞歴:
アカデミー賞 名誉賞(ジョン・チェンバースによるメイクアップ技術)
ヒューゴー賞 最優秀長編ドラマ部門受賞(1969年)
全米映画批評家協会賞 特別功労賞(メイクアップ部門)
国立フィルム登録簿選定作品(アメリカ議会図書館による文化的保存指定)
解説【起・承】
「目覚めるとそこはジャングルだった」なんて言葉が通用するのは、夢かパニック映画の中だけだと思っていました。ところがこの映画は、夢と現実の境界を容赦なくズタズタに引き裂いてくるのです!テイラー少佐をはじめとする3人の宇宙飛行士は、宇宙船での長き眠りから目覚め、目の前に広がる“見知らぬ惑星”に降り立ちます。
緑が生い茂り、水がきらめき、風が頬を撫でる。そう、そこには美しい自然がありました。しかし、美しいものほど恐ろしい。彼らはまるで果実を口にしたアダムのように、“知ってはいけない世界”へと足を踏み入れていきます。植物のトラップ、荒ぶる地形、そして言葉を発さない原始的な人間たち。そこまでなら「ちょっと原始的な星だね」で済む話ですが、そうは問屋が下ろさない。突如現れたのは、なんと馬に乗り、猟銃を構えるゴリラ軍団!
捕らえられたテイラーは、声を奪われた状態でサルの社会に引きずり込まれ、ただの“展示用野生動物”としてケージに閉じ込められます。ここで現れるのが、チンパンジーの科学者ジーラとその婚約者コーネリアス。人間に興味を持ち、テイラーをただの生物学的標本ではなく「言語を持った知性体」として扱おうとする彼らとの出会いが、物語の導火線に火をつけます。
書いた文字で知性を証明し、失った声を取り戻し、「この汚い手を離せ、クソ猿ども!」と叫ぶシーンは、まさに映画史に残る“起死回生の雄叫び”!しかし、声を持ったからといって地位があるわけではない。サルの社会には、科学と宗教が複雑に絡まりあい、“人間は劣等である”という信仰があらゆる知的探求を阻んでいたのです。テイラーは“希望”を握りしめた囚人として、異世界ならぬ“異思考”の迷宮へと、ひとつずつ、扉をこじ開けていきます。それは知識と真実を巡る壮大なチェスゲームであり、理性と感情、希望と絶望のダンスでもあるのです。
解説【転・結】
さあ、物語はここから“ひっくり返る”どころの騒ぎではありません。テイラーの存在はサル社会に波紋を呼び、彼は法廷に引きずり出され、言葉を話す人間の存在を「神への冒涜」として裁かれる羽目になります。この法廷はまさに“理性という名の仮面をかぶった独裁劇場”。オランウータンの学者たちは、見たくない真実には耳を塞ぎ、聞きたくない論理には目を閉じ、都合の悪い証拠には口を噤むという三猿っぷりを見事に披露してくれます。
そして現れるのが、サル界の重鎮・ゼイウス博士。彼こそが、この世界の“真実の番人”であり、“隠された過去”を知る者。しかし、彼はそれを語らない。いや、語れないのではなく、語らないのです。なぜなら、真実が暴かれれば秩序が崩れ、サルの社会は混乱に陥るから。その選択は、支配か平等か、嘘か希望か、という究極の二択の中での苦渋の判断。テイラーはジーラたちの助けを得て脱出し、砂漠を旅しながら“禁断のゾーン”と呼ばれる地域へと足を踏み入れます。
そこには、文明の残骸と、人間がかつて支配していた痕跡が刻まれており、ゼイウスの言っていた“過去に滅んだ人類”の正体が少しずつ明らかになっていくのです。そしてついに、丘を越え、海辺に辿り着いたテイラーの目に飛び込んできたのは砂に半壊した自由の女神像!そこは地球だった!
そう、この惑星は別の星ではなく、テイラーたちがかつて住んでいた“地球の未来”だったのです。崩壊した文明、逆転した支配構造、失われた記憶。そしてその全てが、このたった一つの像によって証明されたのです。テイラーは膝から崩れ落ち、拳を握りしめ、叫びます。「やってしまったんだ…自分たちの手で…!」と。栄華はやがて瓦解する、理性はやがて驕りに変わる、そして知性は自滅を選ぶ。これはただのSFではなく、現代に対する“反省文”であり、“遺書”であり、“希望を込めた警鐘”なのです。思考を巡らせる者すべてに突き刺さる、知的で壮大なクライマックスが、ここに待っているのです。
猿の惑星まとめ
「猿が人間を支配する」このワンフレーズだけで、誰もが一度は“ウホッ”と笑ってしまいそうになりますが、笑っている場合ではありません。この物語は、笑いの皮を被った鋭利な哲学、ジョークに隠された未来予言、そして“己を映す鏡”なのです。
人類がどれだけ高層ビルを建てようと、どれだけスマートフォンを持ち歩こうと、どれだけAIと共存しようと、自然の摂理と倫理のタブーを無視すれば、最後には自分たちの手で自分たちの首を絞める『猿の惑星』はそれを約50年以上も前に、観客へと投げつけたのです。テイラーの叫びは、彼一人のものではありません。
それはあなたの叫びであり、私たちの叫びであり、未来からの“逆輸入された過去”なのです。荒野の中に佇む自由の女神は、今も黙って我々を見下ろし、こう言っているのかもしれません。「お前たちは、まだ間に合う」と。ユーモアとサスペンス、哲学と皮肉、アクションと沈黙が見事に融合したこの物語は、観る者すべてに「人間とは何か?」という宿題を残して去っていくのです。そしてその宿題は、誰に答えを強制されるわけでもない。だが、答えないままでいると気がつけば、あなたも馬に乗ったサルに追いかけられているかもしれません。
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余談・小ネタ
さて、ここからは“裏の猿の惑星”、つまり本作に隠されたエピソードを覗いてみましょう。まず有名なあのラストシーン、自由の女神が砂浜に刺さっている衝撃映像。なんとこのシーン、撮影場所はカリフォルニアのマリブ近郊。映画の舞台は荒涼とした惑星でしたが、実際にはハリウッドスターたちが海水浴する場所だったなんて…観終わった後に海で泳げる気がしなくなるトリビアですね。
そして何より驚きなのが、当時この映画は「猿が喋る?バカバカしい!」と企画段階で一蹴されかけていたこと。しかし原作小説『La Planète des singes』を読んだプロデューサーたちは、「これは風刺だ!これは哲学だ!」と大興奮。その熱に動かされたのが、あの『トワイライトゾーン』で有名なロッド・サーリングです。彼の脚本によって、ただのB級SFだったはずの作品が、知性と皮肉と時代批判に満ちた“知的エンタメ怪獣”へと進化を遂げたのです。
また、特殊メイクを担当したジョン・チェンバースは、そのあまりの完成度の高さからCIAにスカウトされ、後に実際の諜報作戦でも偽装に協力したという都市伝説級のエピソードも存在します。そしてテイラーを演じたチャールトン・ヘストン、実は「猿が喋る世界なんて」と最初は苦笑いしていたものの、撮影が進むにつれて「俺がこの役をやることで作品が深みを増すなら」と全力でコミット。結果、名優のキャリアにおいてもひときわ輝く名作となりました。
そして最後にひとつ、あの印象的な“サルの裁判所”の構造、実はローマ時代の神殿と、アメリカの最高裁判所を足して2で割ったようなデザインになっているのです。「正義」とは?「知性」とは?「支配」とは?そう問いかける建築すらも、物語に組み込まれていた、そう思えば、この作品がいかに計算され尽くした“芸術”であるかが、じわじわと伝わってくるのではないでしょうか。

更新日: 2025-06-10